「京アニ放火」事件で、たくさんの夢と才能が消えてしまったという事実を受け止められずにいる
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悔しく悲しい
「京アニ放火」というニュースに接してから、むなしさや、くやしさが止まらない。
個人的には、それほどアニメを見る方ではない。とくに最近のアニメは。
「けいおん!」も「らきすた」も見たことがない。ファンに比べれば語る資格がないかもしれないけれども、それでもなぜか心がつらい。
事件の翌朝、テレビをつけて、京アニの事件が夢ではなかったことをあらためて知り、ふたたび落ちる。
京アニの存在はもともと知っていた。その技術力や、志の高さも知識として知っていた。
「京都に素晴らしいアニメーターの集団がいて、精魂込めて、アニメを作っていた」という事実が、私の心のどこかを支えていた部分があったということを、今回はじめて知った。
たぶん、それは任天堂やスタジオジブリ、有名YouTuberや有名作家、ピクサー、なんでもいいんだけど、ただこの世でその人たちが生きている、ものを作っているというだけで私はそこに頼って、安心しているんだろう。
小学校のころ、私もマンガを描いていて、もっとうまい子はクラスに何人もいた
小学校のころ、私もマンガを描いていた。へたくそながらも、話を作るのは楽しかった。
文章はどんなにいいものを書いたって、読んでくれる人は少なかったけれども、マンガはキャッチ―だから、いろんな人が読んでくれるのが嬉しかった。
ただ私よりも絵の上手い子は何人もいた。私から見て天才じゃないかというくらいのレベルに達している子さえいた。
中学に上がり、その天才(仮)は美術部に入り、才能をさらに発揮した。
ただその天才(仮)も高校ではもっとうまい子に出会って自分の限界を知り、筆を折り、単なるマンガ読みのオタクになった。
私から見ての天才(仮)は、広い世界に出てはただの凡才だったのだ。
そして、その天才(仮)が筆を折るきっかけになった絵の上手い子たちがその後、世に出たという話もまた、聞かない。
おそらくは上には上がいて、才能の上には才能がいて、全員、どこかの化け物にやられてしまったのだろう。
昔はネットがなかったから天狗の鼻は折られにくく、それで世界が広がるたびにみな井の中の蛙であることを思い知り、順番に、「創って生きていく」ことから退場していったのだ。
それが悪いとは言わない。みんながみんな、クリエイターになれるとは限らない。
クリエイターの形にもいろいろあるから、趣味から再スタートでまた敗者復活、それで生きていく道もあるだろう。
けれども私と同世代の仲間たちはいずれも絵で世に出れなかった。私もたぶん、その一人だ。地方大会一回戦負けくらいのレベルだけれども。
そのたとえであれば京アニのアニメーターは全国大会優勝とかそんなレベルといっても過言ではないに違いない。
『山月記』の虎ではなく、『名人伝』の名人になった神たち
私は高校で、『山月記』という小説に出会った。国語の教科書に載っていたのだ。
主人公の李徴は、臆病な自尊心と尊大な羞恥心の持ち主だ。
つまり努力して才能がないのが自他にバレるのを怖がるあまり怠けつつ、かといって凡人として生きていくのは許せないプライドの高さゆえに虎になってしまう、自意識の塊のような男だ。
若いうちはみな、自分が何かになれる、有名になれるという根拠のない自信があるものだ。
しかし大半の人間は、才能を開花させずにプライドだけを腐らせて死んでいく。
そして「自分は凡人だ」ということを思い知るくらい辛いことはない。
『山月記』はその残酷な事実を高校生たちに突き付ける。
「お前らの大半は凡人だ。プライドだけは高いけれども『特別な人』なんかにはなれずに人生を終えるのだ」と。
この小説の解釈はいろいろあるだろうけれども、私はそう受け取った。
もちろん、”スペースレンジャー”に全員がなれなくても、量産型のおもちゃであっても、アンディの特別な友人になることはできる。
そういう生き方もある。
だけれども、私は当時、才能で生きていきたかった。だから『山月記』を読んで、身につまされた。
李徴は私のことだななと。
ただ世の中には、息をするように創作をし、膨大な時間をインプットとアウトプットにつぎこみ、凡人には及びもつかないクリエイティブを創り出す化け物たちがいる。
小説家や音楽家、漫画家がそうだし、アニメーターもそうだ。
彼らは、私が一回戦で負けた戦いで勝ち上がった、虎にならず、あるいは虎を飼いならした人たちだ。神だ。
そこに至るまでににどれほどの時間を費やしたのだろう。彼ら以外にどれほどの人たちが虎になり、敗退していったのだろう。おそらくは犯人も、神になりたいと願いながら虎になった凡百以下の存在だったのだろう。
その神たちが33人、いっせいに、虎に食い殺され、むごい死に方をする必要はどこにあるというのだろう。
同じ日に断ち切られた未来の先には、別の世界線ではどんな作品が生み出されていたのだろう。
悔やんでも悔やみきれない。
大事な存在を亡くしたご家族の辛さは想像を絶する
また、彼らがクリエイターでなかったとしても、きっと、誰かの大事な娘であり息子であったろうし、誰かの母であり父であったかもしれない。
いってらっしゃいと何の気なしに送り出した大事な家族が、その日に変わり果てているというのは悪夢にすぎる。
自分の身であれば正気が保てる自信はない。
今朝、このニュースを見ている私を、暗い表情だったんだろう、心配そうに見つめる3歳の娘に気づいて彼女の手を握った。
小さくて、柔らかくて、温かかった。
このだいじな手を亡くしたとき、私はどうすればいいんだろう。亡くしたご家族にどんな言葉をかければいいんだろう。
被害者とそのご家族にお悔みを申し上げるとともに、一日も早いご回復を心よりお祈りしております。
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