ブログや絵、コンテンツを作るときに必要な、たったひとつの冴えたやり方:自分の人生を振り返りながら

文章力のつけ方について聞かれたよ

お疲れ様です、pontaです。

ブログを長いこと書いてると、「文章力のつけ方」についての質問があります。

私ごときがクソ僭越と思うんですが、まあ、オリンピックには出てなくても町の水泳好きのおっちゃんでも教えられる泳ぎ方はあるだろうってことで書いてみる。

「文章力」にもいろいろあって、私はよく、陸上で例えてるんですけど、小説の文章力は「長距離」、ブログやコラムは「中距離」、Twitterのような「短距離」の3種類があるんですよね。

私は明らかに中距離向きです。だって、情景描写とかぜんぜんできないし。まずもって情景に興味がない。書いてて途中で飽きちゃうし。

私がどこで中距離選手になったか、そしてブログの書き方を覚えたかっていうと、高校時代ですね。

ラジオの投稿はブログを書くのに役立ってます

私は中学までは、国語も作文もそこまで得意じゃなかったんですよね。本はよく読んでましたが、ほかの教科のほうが得意でした。

ただ高校時代、ラジオ番組に投稿しはじめて、週5日、毎日3時間くらいハガキを書いていたんですよね。それも、3年間!
ひねる、ひねる。頭をひねる。無から有を生み出す3年間。

でもそれで作文が苦にならなくなったし、いまとなればそれがいまブログを書く時の基礎力になってるなと。

だって、3時間×5日×50週×3年=2,250時間ですよ。

日本人が英語を習得するためには、約2,200時間が必要と言われていて、それに匹敵するという。

青春の無駄遣いだと思っていたし、いまも思ってますが、それでもブログを書くのにだけは役立ってますね。感謝してます。

もちろん「高校時代はハガキなんて書いてないで、JKと恋愛すればよかったな~」と思う時もありますよ。

でも、こうしてブログを評価されるようになって最近やっと、ハガキかJKと聞かれたら胸を張って迷わずJKと答えられるようになりました。(主張変わらず

高校時代にしてイチャイチャ彼女とマックにしけこんでTwiceをひとつのイヤホンで聴いてるイケメン神に比べれば、自分なんて靴の裏にくっついたゴムにも劣る存在です(卑下しすぎ問題)。

とはいえ、柔らかい脳みそが「ネタ脳」になったのはこのときかな。

「面白さのまえには、自分なんてどうでもいいんだ」

あとラジオって、書いたハガキのすべてが読まれるわけではないんですよ。

ネタが面白くないといけない。当然。つまらなければ、読まれないんです。

「pontaはこう思った」とかラジオ局の人にとってはなんの意味もない。私の主張や性格には一円の価値もないわけです。

「私の文章を使って、番組が面白くなるかならないか」だけの話です。

高校生の私なんて、自意識も過剰で、根拠ない自信があって、イヤなガキだったと思うんですよ。

自分を売り出したくて仕方ない。「自分」「自分」「自分」です。

ただそこでぐっと我慢して、自分の中の湿った部分を乾かして、面白さだけをDJに提供する。

授業中もあくびをしながらノートの隅にネタを書く。ネタがなくなってからがネタ師の勝負。そんな毎日でしたね。

ハガキ一枚にきっちりおさまる分量の文章を毎日ひたすら書く。いまでいえばブログを毎日5、6本更新するようなもんです。

他人からやれと言われてもやれないですよね。好きだからできたんだと思います。

毎日毎日、採用率を気にしながら、PDCAをまわしまくる日々。「5枚書いて3枚読まれるなら、10枚書けばいいじゃない」という時期もありました。クレイジーですね。

音のリズムのまえには主張なんてゴミ箱に捨てろ

あとラジオって、「DJが読みやすい文章」ってあるんですよね。

例えばですが。

「なぜなら」より「なぜならば」のほうが口がまわる。

「そうなんだよ」より「そーなんだよねえ」のほうが聞こえがいい。

「私は思う」より「私はそう思う」のほうがリズムがいい。

私の場合、人が音読する前提で文章を書き続けていたので、そういう音読リズムが身に沁みたかもしれません。

っていうか、自分の言いたいことより、リズム重視です。

DJの読み方にあわせて、文体を変えたり。中年ロックスターと芸人、女性アイドルの声のトーンは違うし、人には話し方の癖とかあるんで、それにあわせて句読点の入れ方を変えたりしました。
「このリスナーは読みやすいな」ってDJに思われたら、すごく採用率が上がるんですよね。そのために。

無駄スキルと思いつつ、これは今、シナリオを書くときに役立ってるはず…。です。

そうやって工夫しているうちに、伝説のハガキ職人の名前を各ラジオ局でほしいままにし、大学は現役で落ちました。

それで浪人時代、ラジオの制作会社から「うちで働いてみない?」と言われたんですけど、「これからはラジオの時代じゃない」と思って普通に勉強して大学に入りました。

そこはわりと堅実という。

手伝った劇団がともかくエンタメ志向だった

大学に入り、今度は演劇を手伝うことに。

尊敬する脚本家の人を手伝う形。その人、才能はあったんだけど女好きで。劇団員に愛人がいたりして、困っちゃいました。

そこで私は「華やかな舞台は裏を見ないで表でお客さんとして楽しむくらいがいい」ってことと、「ファン会とかはあまりにも深入りしすぎると人間関係や運営まわりに疲れるので、ソコソコ参加する程度でいい」ってことを学びましたね。

そんな感じのちょいブラックな劇団裏方生活でしたが、その脚本家の人の「たいそうなテーマなんていらないんだよ。面白いものを書けば、テーマなんて後からついてくるんだから」という、徹底的なエンターテインメント思想はすごくいいなと思いました。

ハガキや劇団で学んだこと

その後、インターネットで自己表現できる手段が見つかり、ブログを書いて、今に至るわけですが。

こうして振り返ると、ラジオも劇団も大した学びなんてないんですが、しいて言うなら「自分はコンテンツを面白くするための手段に過ぎない」ってことですかね。

「自分のために表現やお客があるんじゃねぇ、表現やお客のために自分があるんだ」ってことですか。

もちろん、書いているとき気持ちよく、書きたいように書いているわけですよ。自分の、自分による、自分のためのブログ。

でも、そこで作りだされたものには受け手がいて、その受け手は、俺のことなんかひとつも興味がないこともよく知っている。私はアイドルじゃないから。

たとえば私が食べた朝ごはんが美味しかったことなんて、誰にとってもどうでもいい情報なんです。「だから?」ってなもんです。

ただ、そこで朝ごはんのレシピや、失敗談をひとつ入れることで、少しは誰かの役に立つ情報になる。

滅私のサービス精神っていうんですかね。

私の中にはボランティア精神なんて一ミリもないんですが、ものを作るときにはかならず、この、お客様第一主義の、滅私のサービス精神が出てくるわけで。

そもそもモノづくりを好む人なんて、劣等感や顕示欲、そして承認欲求まみれの、クッソめんどうくさい癖のある連中だと思うんですよ。いや自己評価ですよ。

でも、そのモンスターをなんとか抑え込み、利用しつつも、「気持ちよくなる人」を「自分」ではなく「他人」に軸点を置くことで、いちおうは人様に提供できる何かが産まれるんじゃないかと思っています。(下ネタで例えようと思いましたけど自己規制)

それをたたき込まれた青春時代だったなあと思う也。

つまり何が言いたいかっていうと、高校時代はJKと恋愛をしろってことですかね。

以上、よろしくお願いします。