文章の神髄は「心」×「技」×「体」の掛け算だと思うんですよね —「いい文章の書きかた」について

文章の魅力は「心」×「技」×「体」の掛け算

お疲れ様です、pontaです。

最近よく「文章の書きかたについて教えて欲しい」「添削してほしい」と言われるのでまとめてみたいと思います。

「自分ごときが…」と思う面もありながら、プロのライターでありブロガーですので、なにかの足しになればと。

まずもって、文章の魅力は個人的に 「心」×「技」×「体」の掛け算だと思っています。

わかりやすくいうと、「心(エゴ)」×「技(テクニック)」×「体(体験談・情報)」ですかね。

「体(体験・情報)」には小手先の文章力など、かなわない

なかでも個人的に敗北感を味わうののはおもに「体(体験談)」がすごい人です。

あれの最たるものは日経新聞の「私の履歴書」っていう、功成り名を遂げた人のインタビュー欄ですよね。

海千山千の社長さんの激烈なエピソードトークに、たかが文章力で勝てるわけないじゃないすか。

「そのとき愛人が10人いました」とか「資金がショートしたときに取引先100件に土下座しました」とかいう豪傑の話は、もう、それだけで面白いわけで。

そこまででなくても「クラロワの魅力について語る」ときに、クラロワをやってないライターがいい文章を書けるわけがないですよね。

「自分は文章の素人だ」と自認する人も、自分しか持っていない情報さえあれば、プロなんか屁でもないですよ。

よく小学校で「自分なりの体験談」を書けというのはそれです。その夏起きたこと、感じたこと、やったゲームはその人だけの最強の武器です。

それを大事に。どの人でも一冊は本を書けると言われていて、それが「自伝」なのです。

逆にいえば、自伝「しか」書けない人になったらだめってことっすね。

一番だいじで、そしてまた軽視されがちなのは「心(エゴ)」

一番だいじで、そしてまた軽視されがちなのは「心(エゴ)」ですね。

読む人が読めば、書き手の実力は一瞬でわかってしまうのですが、そのポイントはおもに「心(エゴ)」と文章の一致感ですね。

別に、心が綺麗かどうかって話じゃないですよ。

「きちんと、思っていることを書けているか」ということです。

「思っていることを書くなんてあたりまえじゃないか」と思うかもしれませんが、なかなかどうして、長文になればなるほど、人は余計な情報を入れがちになります。

たとえばですがこんな文章。

「私が先週の金曜の夜、西麻布で、芸能人も来るくらい有名な高級フレンチの店で女友達と飲んでいたときのこと」

わかるんすよ。いい店で、女の子と飲んでた自分ってすごくね?って言いたい承認欲求。言葉のインスタ映え。わかるんだけど、心の寄り道が過ぎるんですよ。そこは「伝えたいものを伝える」という真のエゴを優先し、私ならこう書きます。

「先日、某所で飲んでいたときのこと」。これだね。

文章を書きなれている人ほど、自分を突き放し、自分のエゴを見つめ、伝達に命を賭けます。

「発信する人」ってのはたいてい、「自分自分自分」の面倒くさい連中ばっかです。私自身、そうだと思う。しかしそこで、「自分のエゴ」を一歩離れたところで客観視して切り離せるかどうかはプロとアマの分かれ目だと思うんですよね。

またよくあるのが、「配慮しちゃう人」っすね。

たとえばですがこんな文章。

「先日、私によくして下さっているAさんという方(みなさんも知っていると思いますが、一応お伝えしますと彼はブログもやっており、そちらも楽しく読んでいます!キャスもめちゃくちゃ楽しいですよ!リンクもはっておきますね!)からTwitterのDMで連絡がありました。いきなりDMがきてびっくりしたんですが、薄々なんとなく用事を察しつつ。でも彼の友達のBさんと仲良くしているのでその話かなとも思いつつ」

私ならこう書きます。

「先日、Aさんという方と話したときのこと。」

相手の素敵さを伝えたい、誤解されたら失礼という熱量のあまり、文章が寄り道してしまっている。配慮のために導線が複雑になってしまっている。

この配慮がまるでないのが、さくらももこさんの文章です。キレキレです。下記引用。

祖父が死んだのは私が高二の時である。
祖父は全くろくでもないジジィであった。ズルくてイジワルで怠け者で、嫁イビリはするし、母も私も姉も散々な目に遭った。
そんな祖父のXデーは、五月の爽やかな土曜の夜に突然訪れた。
夜中十二時頃、祖母が「ちょっと来とくんな、ジィさんが息してないよ」と台所から呼んでいる。
私と父と母はビックリして祖父の部屋に行った。
なるほど、祖父は息をしておらず、あんぐり口を開けたまま動かなかった。
あまりのバカ面に、私も父も母も、力が抜けたままなんとなく笑った。
(略)
姉は恐る恐る祖父の部屋のドアを開け、祖父の顔をチラリと見るなり転がるようにして台所の隅でうずくまり、コオロギのように笑い始めた。
死に損ないのゴキブリのような姉を台所に残し、私は祖父の部屋へ観察に行った。誰も泣いている人はいない。ここまで惜しまれずに死ねるというのも、なかなかどうしてできない事である。

—さくらももこ著『もものかんづめ』(集英社文庫)より「メルヘン翁」

身内の死を、じつに端的に書いている。これのすごみは、「身内の死をユーモラスかつ突き放して書くことに対する非難」をいっさい恐れていないことにあります。

姉を死にぞこないのゴキブリ呼ばわりもなかなかすごいけども。

普通の人は思い付かない。そしてそれ以上に、思っても書かない。しかしそこで配慮せずに、政治的配慮より上に表現を置く冷徹さ。

「身内の死を悲しまない自分」をごまかさず、もう一人の自分がそれを冷ややかに描写する。自分の中の、一段深いところに自覚的になる。

こういう、「自分のエゴを徹底的に見つめる」作業を乗り越えた人の文章は実に端的で、一段、優れたものになります。端的で文章が短いということは情報不足とイコールではないんですよ。そこにありとあらゆる感情や情報が濃縮されているということであります。

ものを書く人はおしなべてエゴイストだとは思いますが、とはいえ「他人にどう思われたいか」に気を散らさず、伝えたいことに一点突破できるかどうか。

気持ちや文意をふわっふわさせずにいられるか。

ニュアンスが難しいんですが、この「エゴによって文章が取っ散らかる」のを抑え込めるかどうかは素人とプロの分かれ目かなと思っています。これと同じようなことを三島由紀夫も言ってましたね。

「技(テクニック)」について語ることは多々あります。

ありすぎるのでそれはまた次の機会に。しいてまとめれば、短文こそ名文の基礎といったところです。

以上、よろしくお願いします。