大事な人には生きているうちに感謝を伝えようという話
大事な人には生きているうちに感謝を伝えようという話
自伝を書いてみた
お疲れ様です、pontaです。
弊社の社長がファンへの景品として自伝を執筆したのにつられて、自分も試しに書いてみました。
しかし、出来上がりを読んでみて恥ずかしいこと恥ずかしいこと。
うまくいったときのことは自慢に見え、失敗した記憶は不幸自慢に見える。
ここだけの話、私は、私という存在にはさほど価値がないと思っているんですが、それでも文章にするとなんていうか、持ち上げてる感がすごい。
自分自分自分でめんどくさい。生々しい。
非公開です。いつかお見せできるかもしれませんが、このままでは、無理です。自伝って難しいね。
個人的に母の死は大きな出来事だった
ただそんな伝記を書く作業の中で、母が亡くなったという20代の出来事は私にとって大きかったなとあらためて。
私はぶっちゃけおぼっちゃんで、お金持ちの部類の家で育ちました。しかも一人っ子。
母親から溺愛されて育って、お金の心配もなくて、ただあるときそれらが急に、取り上げられたというのは、人格に大きな影響を与えずにはいられなかったなと。
母が病気にかかっているとわかったとき、私は大学3年生でした。
しかも母の病院からの「会いたいコール」も無視して東京の大学で遊びほうけておりました。
「軽い病気なんでしょ、ヘーキヘーキ」とばかりに。ゲームをし、女の子と遊び、あふれんばかりの仕送りで適当に生きていました。
しかし彼女の病が、悪性リンパ腫という、命にかかわるものであることを人づてに聞いたときに、目の前真っ暗になりました。正確には病名をネットで調べて予後の悪さに驚いた。
なにしてくれんねん母だし、それ以上に何やっとんねん俺、でした。
母が私に心配させまいと病名を明かさないでいるうちに、私と彼女の会える回数と時間はもうすでに残り少なかったのです。
私が上京するとき、母と私の残り時間は少なくても6、70年はあると思っていたし、1000回でも1万回でも会えると思っていた。
ただ18才で群馬を離れた時点で、すでにその会えるカウンターは10回を切っていたんですよね。もったいないことをしました。
私の人生最大の無駄遣いは、母の存命中になかなか里帰りをしなかったことです。
人は死ぬのです
その後、私は大学を留年して彼女を看病。
最後まで母は私の就職に影響を与えたことを謝っていたし、私は私で、病勢が進むまで気づいてあげられなかったことを悔いまくりました。
大事な人が突然死ぬのもきついですけど、徐々に弱っていくのもきつい。
「人類史上、死ぬのに失敗した人はない。」
母はその言葉通り死んでゆき、私もいつかは老い死ぬのだなと改めて実感しました。
その後、父親とは折り合いが悪くて仕送りはストップしましたが、それはそれでよかったなと。
人はお金がないと飢えるんだなというのがわかったのは甘ったれたガキにはいい経験でした。
みなさん、当たり前かもしれませんが、働かなければ飢えるし、いつかはあなたも私も、死ぬんですよ!
お母さんやお父さんとあなたが会えるカウンターの数はもう一桁かもしれないんですよ!
これは平凡な男の平凡な出来事ですけれども、みなさんもそれを頭の片隅に置いてもらってですね。
大事な人には「あなたが大事です」と生きてるうちに伝える。それは私にはもうできない、とっても重要なタスク案件事件簿なわけですよ。
気が付けば母の命日が近いので、群馬のほうを見ながらそんなことを思うなり。
願わくば、彼女には私の恋人も嫁も子も見せたかったです。
なので私の結婚記念日は、母の誕生日になっています。
以上、よろしくお願いします。
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