大ヒット中の『ボヘミアン・ラプソディ』のLIVE AIDのシーンのカタルシスが半端ない!回収された伏線を数えてみた

『ボヘミアン・ラプソディ』の伏線の数が恐ろしい

お疲れ様です、pontaです。

ボヘミアンラプソディ、大ヒット。100億円突破。
私も3回見ました。いずれも泣きました。

最後のLIVE AIDのシーンのカタルシスが、半端ないです。

カタルシスとは、積もり積もった感情の解放と浄化、それにともなう快のことです。

このカタルシスは、主に映画全編で巧みに張り巡らされた伏線の回収(構成の巧みさ)という要素が非常に大きい。

ではいくつくらいその伏線はあったのか。思いつく限りカウントしてみました。

それまで尻切れトンボだった楽曲が、LIVE AIDでは楽曲が最後まで演奏される

『ボヘミアンラプソディ』では劇中、QUEENの楽曲が非常に効果的に使われておりますが、実はほとんどのシーンでフル演奏はされていません。

もちろん、すべての曲をフルで流していたら時間がいくらあっても足りないので当然ですが、悪くいえば全て尻切れトンボで終わってしまっているわけです。

これではQUEENの熱心なファンはもちろんのこと、一般の観客でさえ、そのフラストレーションは貯まり続けます。

しかし最後のLIVE AIDのシーンでは、曲がすべてフルで演奏されます。これは大きなカタルシスポイントだと思います。

『ボヘミアンラプソディ』の歌詞が、映画でのフレディの心境とマッチしている

映画のタイトルにもなっている『ボヘミアンラプソディ』の歌詞(和訳)を下記に引用します。

ママ 人生は始まったばかりなのに
僕はすべてを放り捨ててしまった

ママ あなたを悲しませるつもりはなかったのに
もし僕が明日のいまごろ、戻らなくても
何もなかったようにいて

もう遅すぎる 時が来た
背すじがぞっとする
いつも体中が痛い

さようなら、みんな。もう行かなくちゃ
君たちと離れて現実と向き合う時がきた

僕は死にたくない
時々、僕なんて生まれてこなければよかったって思うんだ。

こうして改めて読むと、『ボヘミアンラプソディ』の歌詞は、母と仲間に向けて書かれた遺書そのものですね。

しかも「さようなら」「もう行かなくちゃ」「体中が痛い」など別れや病気を思わせる言葉がフレディの置かれた状況にマッチします。

この曲を作った当時のフレディは病気ではなかったのにもかかわらず、LIVE AIDの舞台で歌われたことで、彼の心境を吐露する絶唱として活きるのです。

親子関係の和解

フレディは会場入りする直前に、それまで不仲だった父親(家族)のもとを訪れます。

そして、チャリティーコンサートに参加することを告げ、父親が教え諭していた「good thoughts, good words, good deeds(善き考え、善き言葉、善き行い)」を実行できたことを称えられます。

その後、家族はLIVE AIDをテレビで鑑賞。フレディは舞台から家族にキスを送り、映画の冒頭には決裂していた親子関係が、テレビを通じて繋がりました。

体調不良描写からの、元気ハツラツパフォーマンス

映画終盤、フレディはHIVにより吐血し、体調不良の極みになります。

また、病気のせいか、練習不足のためかは定かではないのですがリハーサルで声がろくに出なくなります。
あんなに元気だったフレディ。もう死んじゃうんじゃね?歌えないんじゃね?って描写が観客に提示されます。ハラハラ。

しかしステージに上がれば元気ハツラツ。オロナミンC。(古い)

LIVE AIDの第一声「ママ~♪」は、この作品一番の音量で映画館に響き渡ります。
音響監督のドヤ顔が目に浮かぶようです。

実際、このシーンでブライアン・メイは驚きを、ロジャーテイラーも安堵の表情を浮かべます。

だけではなく、フレディは踊り、躍動し、叫びます。マイクを振り回します。

おい病気はどうなった。

観客の心配を吹き飛ばす、稀世のパフォーマンス。その落差がカタルシスを呼び起こすのです。

LIVE AIDのシーンを後味の悪さを気にせず見れる

私事ですが、私の長女がこの映画を視聴した感想として、『たしかにフレディは可哀想だけど、あの病気は荒れた生活による自業自得だから仕方ないよね』と身も蓋もないことを言い放っていました。

おい何てこといいやがる。この物言い、誰に似たんでしょうか。

でもこの視点は凄く大事で、たしかに彼の病気はある意味”やりきれなさ”を減じている面はあるなあと。
いや亡くなって当然という意味ではなくて。

なんていうかこの映画がもし”主人公が、お金を盗んだという濡れ衣を着せられ、冤罪で死刑になる物語”とかだったら、いくらいい映画でもみんな、二度も三度もは観たくなかったでしょう。

それと比べれば(彼の病気は惜しんでも惜しみ切れませんが)才能と情熱を燃やし尽くした終わり方で、そういう意味ではまあ、後味はとても良かったです。

祭り終わりの寂しさ、みたいな感じ。

主人公の探し求めた2人が最後、一緒にいてくれた

LIVE AIDのステージの裾で、フレディの別れた奥さんと、現恋人のジムハットンが彼を見つめます。

映画の中盤でフレディが失い、孤独の中で探し求めたこの2人がラストで戻ってくるのです。

この映画のテーマの一つはフレディの”拭えぬ孤独”ですが、それがこのLIVE AIDのシーンで解消されたことに観客はカタルシスを感じるのです。

徐々にフレディに心つかまれる観客の描写

LIVE AIDは様々なアーティストが集まるコンサートですから、観客も視聴者もすべてがQUEENのファンというわけではありません。

実際、バーでLIVE AIDを観ていたテレビ視聴者は最初、やや冷ややかです。

しかしQUEENのパフォーマンスが始まるやいなや、みな徐々に惹きこまれ、RADIO GAGAではついに手を頭上で叩き出します。俺も叩きたいから気持ちはわかる。

フレディは「観客を手のひらの中につかんでしまうことができる人物だった」と言われていますが、その魔法にライブの観衆、バーの視聴者、そして我々がかけられる瞬間はカタルシスです。

エーオの拡大再生産

病院で、患者の男の子(フレディのファン)と小さく交わした「エーオ」の交換(コール&レスポンス)が、スタジアムで再現されます。

暗く沈痛だった「エーオ」が、ウェブリースタジアムの大観衆が行う拡大再生産にカタルシスがあります。

バンドはボロボロという描写

終盤、QUEENは解散しオワコン化しているという描写がなされ、それを払しょくするパフォーマンスにスカッとしますね。

批評家への反撃

フレディはLIVE AIDの開催が迫る中、自宅で「批評家どもめ」と猫に向かって、毒づきます。(これはQUEENが当時、批評家に酷評されていたことの表現だと思われます)

そしてライブシーンではが自宅と猫が映し出されます。これはテレビの前でQUEENのパフォーマンスに圧倒される批評家たちの暗喩と思われます。

ちなみに、メンバーのブライアン・メイは映画のインタビューでたびたび批評家に対して敵意をむき出しにしています。

QUEENは、バンドとしてもこの映画でも批評家からボロクソ言われてきたので、思うところがあるんでしょうね。

「天井に穴を開ける」

フレディは「ウェンブリースタジアムの屋根に歌声で穴を開ける」と宣言。 「ウェンブリースタジアムに屋根はないよ」と泣き笑いでジョンに言われると 「なら、空に穴を開ける」と言い返します。

そしてフレディは拳を天に突き上げるパフォーマンスをライブ中に行うのです。

いやこれは別に、実際のフレディがライブ中でよくやるしぐさなんですが、それに対し脚本で意味を与えたということだと思います。

曲順

LIVE AIDにおけるQUEEENのセットリストは完璧です。

いちばん有名な「ボヘミアン・ラプソディ」で名刺代わりの一発。起。哀しみの曲。

それから一転、ポップな「Radio Ga Ga」でスタジアム中を手拍子の渦に。承。楽しき曲。

「Hammer to Fall」で怒りのロック。転。怒りの曲。

最後の「We Are the Chammpions」に至ってはなにおかいわんやです。結。喜びの曲。

なんと、4曲で起承転結、喜怒哀楽を見事に入れ込んでいる!

史実では、Crazy Little Thing Called Love と We Will Rock Youも歌われていたわけですがこの2曲は映画ではなんとカット。
間延びを避けたのでしょう。

でも、中盤であれほど陰鬱なシーンを入れ込んでおいて、ラストのWe Will Rock Youをカットするかね(笑)
この映画の構成センス、尋常じゃない。

「悪役」

マイク・マイヤーズ演じるEMIの社長は、楽曲「ボヘミアンラプソディ」のシングルカットを「長すぎる」と拒否する悪役ですが、LIVE AIDのシーンでは悔しそうにQUEENのパフォーマンスを聴く姿が映し出されます。

しかも、「No time for loosers(敗者に使う時間はない)」の歌詞の部分で。敗者扱いですよ。

見る目のない人物を見返す、という典型的なやつですね。

4人だけの世界

この映画を見れば見るほど、メンバー4人だけのレコーディングシーンが尊く、それ以外のシーンは雑味に感じます。
悪役のマネージャー、ポールプレンターとのシーンは反吐が出るほどダルいですし、なんなら、奥さんとの会話シーンさえ邪魔になってきます。

観衆はメンバー4人だけのシーンを見たいんだ!という状態で、最後のLIVE AIDでは存分に4人だけのシーンが見れるわけで、これこれこれですよ奥さんといったところになろうかと思います。

まとめ

いかがでしょうか。映画『ボヘミアン・ラプソディ』はラストのLIVE AIDを起点に、そこから逆算してシナリオを構成、組み立てていったのがよくわかろうかと思います。

上でも述べたように『ボヘミアン・ラプソディ』は中盤、沈痛な場面が長く続きます。映画批評家からも指摘されるのは、この部分のテンポの悪さです。

ではここをカットすればさらに傑作になるのか。脚本をもっとテクニカルにすれば良かったのかと言われると、難しいところですねえ。

なぜなら中盤の辛くしんどいシーンはいずれも、最後にカタルシスを感じさせるためのパーツに満ちており、構成上、欠かすことのできないものばかりだからです。

だから「脚本が凡庸」という批判は、『ボヘミアン・ラプソディ』にはいちがいに当たらないのかなと思ったり。

台本も書いてるpontaさん的には、本当に勉強になりますわ。

ただ残念ながらこれらのメソッドは私の戦場であるYouTubeには残念ながら、活かせません。

なぜなら、YouTubeは(そしてテレビも)視聴者が途中で飽きたらすぐに離脱してしまうからです。

もしこれがテレビドラマであれば中盤にて「ボラペつまんねーわ」と視聴者は別のチャンネルに浮気し、その結果、伏線の多くを見逃し、最高の状態でラストを迎えられない人も多かったと思います。

そういう意味でもこの『ボヘミアン・ラプソディ』は映画だからこそできた体験なのかなと思います。(ちなみにこの部分「カメラを止めるな!」も同じです)

もちろん終盤のカタルシスだけがこの映画の魅力ではありません。

映画館ならではの音響や大画面、応援上映などもヒットの大きな要因でしょう。

他の映画では及びもつかない膨大な裏設定(史実)もマニア心をくすぐります。

もちろん、楽曲本来の魅力も素晴らしいです。

しかしただQUEENの曲を映画館で流すだけではこのような大ヒットにはならなかったわけで、その裏には、映画の作り手たちによるこうした緻密な計算あってこそなのだなあと改めて思っています。

以上、よろしくお願いします。