「根が悪い子ではない」というのは裏を返せば「おおむね悪い子」ということであり、例えるならチョコレートでコーティングされたアーモンドはすでにアーモンドチョコであり、「『根は悪くない』ということは、もはや悪ではないか」と思った件
お疲れ様です、pontaです。
私が小学校のころ、いわゆる「悪ガキ」がいました。
仮に、K君としましょう。
K君は殴る、蹴る、盗む、うそをつくは日常茶飯事で、クラスのみんなから嫌われておりました。
「根は悪い子ではない」と当時の担任の先生は言ってましたけれども、「根が悪い子ではない」というのは裏を返せば「おおむねは悪い子」ということですよね。
例えるならチョコレートでコーティングされたアーモンドはすでにアーモンドチョコであり、「『根は悪くない』ということは、もはや悪ではないか」と当時の私は思ったものであります。
そんな彼は25歳くらいに同級生で集まったときに酔って暴れて女子のおっぱいを揉んで出禁になり以後は行方不明となりました。元気でしょうか。
「酒さえ飲まなければいい人」は「禁酒の国以外ではダメな人」なのでそこんとこよろしくです。
さて、彼は私が産まれて初めて出会った「悪人」でありましたが、上京してからも何人もそのたぐいの人種に出会いました。
本の中に描かれているような、生まれ持ってのモンスター、いわゆる『サイコパス』もいましたが、それよりも多かったのは「根は悪い人ではない弱い人」でした。
「弱い人」はサイコパスのように他人を好んで傷つけようとはしません。余裕があるときは善行らしきこともします。先生のかつて言ったように「根は悪い人ではない」のでしょう。
しかし彼らは、自分の中で決めている哲学がありません。禁止事項もありません。
たとえば酒。「飲まなきゃいいのはわかっているけど、辛いから飲むしかないじゃない」と言って飲みすぎます。
たとえば金。「無駄遣いしなければいいのはわかっちゃいるけど、たまにはいいじゃない」と言って必要以上に使います。
たとえば時間。「時間は守らなきゃいけないけど、遅れちゃうときもあるじゃない」といって遅れます。
たとえば信用。「約束は守らなきゃいけないけど、みんながみんな、言ったとおりにできるとは限らないじゃない」といって裏切ります。
たとえば浮気。「彼女は好きだけど、これはちょっと別でしょう。」といって浮気します。
たとえば法律。「法律はなるべく守りたいけど、破ってるひともいるじゃない。これくらい罪にならないよ」といって破ります。
一個一個のルール破りはちょっとずつなんですが、そのひとつひとつの弱さが、結局は「大きな悪」に結集していくのを何度となく見ました。
私の出会った限りでは、マンガに出てくるような絵にかいたような悪人というのは意外に少ないもので、悪人のほとんどは「してはならぬ」がない、意志の弱い人であったような気がします。
いちばんムカついたのは、女性と酒を飲ませて強引に関係を持ちながら、「むこうもひょっとしたら喜んでいたし」と言っていた人です。
弱い人は、自己の悪行を過小評価し、脳内で善行に置き換えます。
驚くべきは、こういう人の自己評価は「自分は良い人」なのです。
「俺はいろんな弱いところもあるし、失敗もするし、法律だって破ることもある。でも、それもまた俺。根っこの部分で、俺くらい純粋でいいやつはいない」と思っているのです。
他人を傷つけ、裏切り、信用をなくしてもなお善人なのです。
人は、自分が悪であるという認識に耐えられるほど強くはありません。誰だって自分が正義で善で、悪がいるとすれば自分の反対側にいる人なのです。
かくいう私だって、お金がなくなり、家族に見放され、職が失われた時、「してはならない」が勝ち続ける善人でい続けられないかもしれません。
ただ、「この人なら●●してくれる」は人望ですが、「この人なら●●しないだろう」が信用の源泉であるからして。
お金がなくても、職がなくても、信用さえあれば生きてはいけますが、逆に「この人は、してはならないことはない人だ(=困ったらなんでもする人だ)」と信用をなくせばそこから先は地獄の穴です。
相手を利用してやろうというド悪人に気をつけるのはもちろんですが、意志が欲望に弱い人もまた、なかなか、悪を体現してるなあとこれまでの人生で感じた次第です。
以上、よろしくお願いします。
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悪とは何か?
– 弱さから生じる
すべてのものである。
by. ニーチェ