そして親になる ―とあるゲーマーの育児の記憶

お疲れ様です、pontaです。

文章のリハビリがてら、肩の力をぬいて私生活のことなどを書いてみる。

いま、私の家人は欧州ドイツに出張しています。3人を抱えるワンオペ育児。

長女は発熱、次女は障害持ちで一筋縄ではいかず、三女は3歳になったばかりです。うおー大変。長女の通院のために半休を取らせてもらいました。こころよくフォローしてくれるドズルさんや仲間には感謝に堪えません。あざっす。

1人で育児を切り盛りするとそれなりに大変で、昔だったら「なんで俺が」と家人に腹をたてていたと思うんですがいまはとくにないですね。

むしろ一人目の時のほうが、不満たらたらでした。いまよりらくだったのに。なにせ、ゲームをする時間がない。家人は看護師だったので、ほかの家にくらべ、私のワンオペ育児のタイミングが多かったんですよね。

ちゃんとやるっちゃやってましたけど、思い出せば、泣く子をきつく叱ったり、ご飯を作っても食べてくれない子にイラっとしたりもしました。
本を読みきかせるのに疲れて、子どもにはテレビを見せて放置。自分はケータイゲームをしては、自己嫌悪に陥ってました。

聖母や慈父でばかりはいられない現実。虐待なんてしなかったですが、完璧な親でもなかったなーとも思っています。

育児って、自他ともに「親なんだから●●すべき」「親はこうあるべき」が多すぎてつらみ。

その後、次女が生まれ、彼女に障害が見つかったとき、さすがにこれはと思って「クラクラをやめます」と引退宣言したんですが、ダラダラと戻っていまに至ります。

ただそんな中でも時間は限られているわけで、オフ会で楽しむゲーム仲間たち、リアルイベントを全力投球でやってる独身のひとたちが羨ましくないと言ったらうそになります。

やりたいことがやれないもどかしさ。ほんとうだったらもっとできるのに、もっと書けるのにと、頭の中で散ったアイディアもひとつやふたつではありません。

ドズルさんの医師の片手間YouTubeも人間離れしてますが、私の育児の片手間ブログもなかなかえぐいつらみがありました。

なお、「書かなければつらくなかったんでは?」という正論は今だけは聞きたくない模様。

そして3人目が生まれ、たぶんこれは最後の子供だろうなと思っていると、また違った感慨が生まれます。

長女と次女のときは夢中で、とにかく早く過ぎ去って欲しいとしか思えなかった「しゃべれない時期」や「後を追ってきて離れない時期」もいとおしく、切ないものになりました。

5月のよく晴れた朝。次女と三女の髪を結んでくれる長女。

次女は、お気に入りの男の子と手をつないで校門をくぐります。

三女は、自転車のハンドルに付属したチャイルドシートに座りながら、何度も振り返って「いい天気だね!」と笑って話しかけてきてくれます。

毎日繰り返すありふれた一日ではありますが、もう二度とないだろう、ぜいたくな朝でもあります。

たぶん私が死ぬときに思い出すのは、ドラマチックでヒロイックな日ではなく、今日のようななんでもない日なんでしょう。

わたしの場合、育児の苦労や負担を楽しめるようになるまで3人必要でした。

1人目の育児で悩んで苦しんで自分を責める親御さんも多いかと思いますが、それは自然なことだと伝えたいです。いやー慣れてないもんね。

ただやはり、どんな子であれどんな親であれ、晴れた日も雨の日も、いまという時はいましかなくて、たぶんそれは一瞬で過ぎ去ってしまうものなので。

ひだまりで寄り添い眠る子供のあたたかさや重さ、小ささはとても貴重で、刹那的で、大事なもので、それはたぶん何十年後かに胸がつぶれるような切なさで思い出して泣くんでしょう。

なんならすでに泣いてます。

迷ったり責めたり、泣いたり笑ったり。人はそして親になるんでしょうね。

以上、よろしくお願いします。