「育児とはこうあるべき」「そもそもあなたが好きで産んだんですよね」といった正論で逃げ道をふさがれてしんどい親たちへ
お疲れ様です、pontaです。
育児エントリ―がバズったので育児ライターになろうと思います。来世で。
ところで、育児の愚痴を漏らすと、正しい考えで眉をひそめられるのはなぜなんでしょうか。
列挙すると、下記です。
- ・自分で欲しくて作った子どもなんだから「辛い」と思うのは違うのでは?
- ・育児を手伝ってくれる配偶者を見抜けなかった自分の責任では?
- ・お給料を上げれば解決するのでは?
- ・子どもができない人のことを考えれば、ずっと幸せだよね。
これらは正論です。私も同感です。
ロジックで考えて、突き詰めていけば育児のすべてが自己責任なんすよ。
育児の正解は「育児を手伝ってくれる相手と結婚し、配偶者を教育し、育休をもらえる会社につとめ、正常な発達の子を産み(いやな言い方ですが)、禁欲的に子どもをかわいがり、愚痴を外にもらさずに頑張る」です。
あ、はい。って感じです。
でも、そううまくいかないんですよねえ。人間だもの。
そもそも正論というのは、ようは「論理の穴」をふさいでふさいでふさいで、結果的に残った「そうあるべき」という正解のことです。
正論の力は強い。だって正しいから。
ただ、人はその通りに動けない。
恋愛のすえ結婚に至った相手が育児に理解のない人かもしれない。
お腹を痛めて産んだ子どもを可愛いと思えないかもしれない。
本を読み聞かせる育児を放棄して、アイパッドで子守をして、あとで自己嫌悪しちゃうかもしれない。
育休中に仕事復帰できるか焦るあまり、子供に八つ当たりしちゃうかもしれない。
思わぬ発達の遅れが見つかって、負荷の多い育児になるかもしれない。
公共の場で、たまったストレスで子供に怒鳴り散らすかもしれない。
それらを見たとき「なんて親だ」とか「自分ならそんなことしない」とか「それあなたの責任ですよね」で逃げ道をふさぐこともできますが、それってちょっとキツくないすか。
個人的に「優しさ」というのは「逃げ道を残してあげること」だと思っていて。
賢い人、物事を筋道だてて考えられる人って、理屈の穴とか、相手の逃げ道がわかるんですよ。考えが深いから。
でも、そこで「いやあなたが選んだ相手、あなたが好きで生んだ子、あなたの人生なんだからちゃんと責任をもってやるべきですよね。愚痴とか違うよね」と逃げ道をふさぐか、「育児ってそういうこともあるよね。仕方ないよね。大変だよね」と共感し、逃げ道を残してあげるか。
人によるかなと思います。
いや、正論を示す人も絶対必要だとは思いますよ。でも私は別に優しくはないにせよ、逃げ道を残す側でありたいなと思うんですよね。育児においては。
だって、理屈の通じない赤ちゃんを相手にしてれば、理屈通りにいかないもん。いろいろあるさ。
私は3人子供いますけど、鬼のように手のかかる子もいれば、ラクチンな子もいました。
長女は24時間泣きっぱなしでしたが、次女は置いただけで寝る子だったので「え、育児ってこんな楽だったの??」と二人目の時に思いましたし。
もし私が次女しか知らなければ育児の真のつらみしんどみを理解せずに人生を終えたかもしれません。
まあ、赤ちゃんの個性は千差万別、育児環境は千差万別で、「育児とはこうあるべき」というものがまったく通用しないので、正論で逃げ道をつぶすのもいいですけど、個人的には「がんばろうぜ、ご同輩。辛かったら相談しろよ」程度でふんわりいくのがいいのかなと思ってます。
私の本業はゲームライターです。
以上、よろしくお願いします。
ディスカッション
コメント一覧
うちは男二人からの8歳差で女の子が2年前に産まれ、んぬううううクラロワ沼!!!!!
自分も子を持つ父親です。
ツイッターでシェアしてる人がいたので拝見させていただきました。
とても個人的な感想を述べさせていただきます。
正論という言葉ほど嫌いなものはない、
勝手にそう導き出しただけであり、ロジックの組み方が違っただけである。
いわゆる”お前の中だけでは正論なんだろうよ”と言いたくなるやつです。
そもそも論理的とはなんだ?
完全に1か0にできる物理的現象でもないのに論理的であると言いづらい
こと育児については自己責任ではなく連帯責任である。
なぜならば、人間が存続していく上で、人間を生み出し育てを継続し
種の保存のために行われるものであるからです。
人間の活動で単純にゼロイチ判断できるものはないと思っています。
・自分で欲しくて作った子どもなんだから「辛い」と思うのは違うのでは?
問.なぜ子供が欲しくなったのですか?
→国として少子化を叫んでおり日本国民として協力的になることができるから
→人間社会的に子供を持たないと上位世代からの歓迎を得られないから
→子供を産める適齢時期を逃すと産めなくなるため
・育児を手伝ってくれる配偶者を見抜けなかった自分の責任では?
問.なぜ育児を手伝ってくれる配偶者を見抜けなかったのですか?
→育児を経験しておらず、選定時点で必要な情報が不足していたから
→相手からどうやってその情報を抜き出すかわからないから
→選定当初は逸材だったが相手側の状況が変化したから
→育児を共同で行なっていくためのスキルとして
・お給料を上げれば解決するのでは?
問.なぜ給料を上げれないのですか?
→時給単価を上げるためには能力を上げる必要があるから
→能力を上げるために勉強が必要で子育ての時間で奪われるから
→仕事上の責任のあるポジションへの昇格できないから。
→何かトラブルがあった時にカバーする残業や休日出勤を任せられないから。
→会社の業績がよくないから
→商品単価をあげられないから
→製造コストを下げられないから
→給料が高い職業につけないから
→給料が高い職業は責任および能力が必要とされるから
・子どもができない人のことを考えれば、ずっと幸せだよね。
これは感情だけの話であり論理ではない。運が良かったただそれだけ
幸せかどうかは他者に判断されるものじゃない
この問題は自己で判断するための理由および材料であり、
自身に降りかかっている状況によって判断しているはずです。
自分で状況を変えれるもの
自分だけでは状況を変えられないもの
その判断材料に他者の状態が必ず関わってきます。
の両方が混じっていると思います。
育児に対して自己責任を唱えてる人たちは、
本来持つべき社会的に子供を育てるための責任を放棄しているだけであり、
連帯責任からの逃げの口実のために唱えてるに過ぎないようにみえます。
もし責任がそこにあるならば、育児をしないという責任もあり
その人達は後世に続くために育児に対する問題を考える義務があると考えます。
そのため、”自分のやりたくないことはやらない”という無責任ではないかと個人的に思います。
なるほど!
こういう面倒なこと一切したくないしそもそも子供のいるメリットがわからんから絶対子供欲しくない、自分の幸福のための人生にしたいわ私は